止止庵老大師
前・相國寺管長及び大通院(相國寺専門道場)住職
前・鹿苑寺(金閣寺)住職
前・慈照寺(銀閣寺)住職
梶谷宗忍(1914~1995)
老師の諱(いみな)は宗忍(そうにん)、道号は太拙(たいせつ)、室号を止々庵(ししあん)と言います。
俗姓は梶谷和吉(かじやわきち)
通名として「梶谷」を「かじたに」といっていました。
大正3年(1914)7月8日、大分県佐伯市蒲江大字西野浦に生まれ。
昭和4年、佐伯中学(現・佐伯鶴城高校)に入学、同6年7月、胸を病んで佐伯中学校を中退して
佐伯市の願成寺(臨済宗妙心寺派)龍淵芳洲和尚を戒師として得度し僧籍に入りました。
しばらく佐伯での修行を積んだ後、昭和10年10月、建仁寺専門道場に掛錫し、
竹田頴川老師の室に入って参禅。
昭和15年2月、長岡禅塾の設立にともない禅塾に移り、初代塾長梅谷香州老師に師事しました。
建仁寺僧堂から2名、天龍寺僧堂から2名の計4名入塾した内の一人です。
この時、道号の太拙を受けます。
昭和25年3月、天龍寺派常照皇寺末寺宝光寺に入り住職となりました。
同年11月、梅谷香州老師遷化により、その忌明を務めてのち、
改めて昭和26年2月相国寺専門道場に掛錫し、大津櫪堂老師に師事し、後に嗣法致します。
昭和33年4月、相国寺学生寮般若林寮監となり、昭和38年10月、相国寺専門道場職(師家)に
就任しました。
昭和51年6月には京都五山の一つである臨済宗相国寺派の第六代管長に就任。
管長時代の昭和59年5月、慈照寺(銀閣寺)の住職、60年9月には、
更に鹿苑寺(金閣寺)の住職をも兼任しています。また、昭和54年からは、花園大学講師としても活躍。
臨済宗相国寺派の大本山である相国寺は、足利三代将軍義満が後小松天皇の勅命を受け、
約十年の歳月を費やして明徳三年(1392)に完成したお寺で、夢窓国師(夢窓疎石)を勧請開山、
普明国師(春屋妙葩)を創建開山とし、京都五山の上位に列せられる夢窓派中心の禅宗の名刹です。
金閣・銀閣両寺をはじめ国内百余カ寺を数える末寺を擁しています。
宗忍老師は、日本の仏教界を代表する高僧として海外からの評価も高く、教えを仰ぐものも多く
日ごろは、墨染めの雲水衣を愛用し、質素な風貌で高僧らしく食事にも非常に厳しく、
それゆえに「二十世紀最後の禅僧」と言われています。
宗忍老師はまた、書の道にも通じており、その格調高い墨跡は、世上の賛嘆するところであり、
数多くの作品を残しています。
高齢でありながらなお活躍を続けていた宗忍老師も、平成7年(1995)1月16日享年82歳で
天寿を全うされました。
宗忍老師は、郷土への思いが非常に強く上洛して老師を尋ねてこられる郷土の友人知人には
常にお会いしていました。
平成8年1月、一周忌を迎えるに当たり、相国寺から分骨して生家のある西野浦に
お墓が建立されました。
佐伯市蒲江西の浦にある梶谷本家の止々庵塔
拈華室老大師(前列左:田中芳州相国寺専門道場師家)・虚室老大師(前列左2番:澤大道国泰寺派管長)
「修行した専門道場の老師の墨跡を沢山持っている僧侶はロクに修行もしていない。」は某老師の口癖です。
・・・僧堂を引くときに頂いた墨跡は茶掛け二幅だけ!です。
写真の墨跡はいずれも老師が佐伯に戻ってこられるたびに頂いた?ものです。
止止庵老大師 (福泉寺窯)
虚室老大師 (福泉寺窯)