数え歌
遠くふるさと沖縄を離れた子供達が作り歌っていた数え歌。
一つとや、人も知らない大分へ笑ってとんできた私たち。
二つとや、二親離れてきたいじょう、戦い勝つまで帰られぬ
三つとや、皆さん私の苦労見て、元気な生徒さんと言うだろう
四つとや、夜の電気がつくたびに、母のお顔が眼に浮かぶ
五つとや、いつも先生に起こされて、朝の行事をすませます
六つとや、向こうに見える停車場、乗っていきたい沖縄へ
七つとや、長い太平洋の荒波を渡って来ました私たち
八つとや、山中育ちの私達、お寺の麦めし好きになる
九つとや、ここで私が死んだなら、いかなる先生でもこまるでしょう
十つせ、とうとう戦い勝ちました、明日は沖縄へ帰ります
十一とせ、いちいち作ったこの歌は、元気な生徒さんが唄います。
終戦を迎え
別府市旅行記念撮影
昭和21年(1946)10月1日 別府市太平旅館前にて
今から72年前
(昭和四十六年大分合同新聞より・・・義弘和尚投稿)
私は咋年の暮れ、拙寺に昭和十九年秋より二年半、沖縄から疎開していた、かっての学童
五十六名に招かれ、沖縄で思いがけぬ、勿体ない歓迎を受け、楽しい日々を過ごさせて頂きました。
空路僅かに四十分、那覇に着いた私は、空港で私を迎える大勢の人波に驚かされ、
それからの一週間、村主催の歓迎会、疎開学童だった人々の集り「正定寺会」の歓迎会、その父兄の歓迎会、
等々で当時の話は尽きる事なく、夢の様な毎日でした。
新聞が伝える様に、沖縄は多くの問題を抱え、島民の日常は、本土に住む私達と比べると、過去も現在も
決して幸せではありません。
それ故特に感じたのが「生きる尊さ」と「教育の偉大さ」でした。
会の席上、具志頭の人々の話に依れば、当時、押し寄せる米軍の脅威、その中での命がけの本土への疎開。
生き別れして再び会えぬかも知れぬ親子別離の心情。
多数の子供の命を預る重大な任を引受けた教師の決意。
望まぬ闘いの渦中、散りじりになり乍ら、洞窟に潜み、飢えに耐え全島を廃虚ときれ、
而も戦後二十余年、米軍の占領下、差別や苦労を忍び、平和になって会える日を祈って生き抜いた、
一日々々だったとの事でした。
それ故に人々は今日あるを互に祝し、私の手を取って涙しました。
その感動は生きる尊さを私の胸深くに伝えました。
次に、教職を捨て、二年近く学童の世話に当った教師、森田先生の限りない愛の指導、身をもっての教えが、
今四十才近くになり、既に親となった人々の中で立派に生きている事でした。
疎開の時、先生は、自分の衣類をすべて脱いで子供の物にし、一粒の米、一個の芋を得るため、
夜までも子供の寝顔に気を配りながら山野を拓いて畑にし、又食糧と交換のため、佐伯の浜で塩を焼きました。
考えられるすべてを身を以って当ったのです。
子供のためには苦しい世間の風の全てを一身に受けてかばい、そして全員を無事沖縄に連れて
帰ったのです。その真心の指導を、私は今度の旅で次の事柄の中に見ました。
歓迎会の席上、学童代表は云いました「二年半の御恩は此の一週間で到底返せません。
しかし、私達に出来る限りの事はします」言葉少ない挨拶はそのまゝ実行されました。
私を案内しながら冷たい風はさりげなく人垣を作って防ぎ、夜はつもる話も打ち切ってそれとなく
私の疲れをかばい玄関に置かれた靴は誰がするともなく磨かれ、
レストランでは全員か私の食事が出来る迄は誰云うとなく待ち、常に一番安全な運転者の車に乗せ、
女の子はそっと寄って服の塵を払い、風が吹けばセーターを脱いで掛ける。
漬物好きの私に誰が届けたか鹿児島の漬物が送られ、
大分県戦没慰霊塔には二度も車を走らせ花束を持参する。
数え上げれば切りがありません‥そこには暖かい心が通い、幾度か私を感激させました。
あわただしい年の瀬を、一家の主人、主婦が常に二十名近く交替で尽すチームワークの良さ、
森田先生の人柄を知る私は、さりげなく親切を行えるこの人々を見て、
教育の真の姿を見た思いがしました。
空港で手を握り、涙を浮べて別れた、かっての学童やその親達の多くの人々を今思い浮かべ、
その人達に幸せの日が来る事を心より祈っています。(正定寺住職)
昭和45年(1970)12月27日歓迎写真
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森田吉雄さん・沖縄学童疎開引率教師
《正定寺山門》
下校路に『蜜柑の皮でも落ちていないだろうか』と眼を輝かせる学童たち………
国鉄線路を歩き柚の原トンネルの前で国道に下る。
お宮の前を過ぎると、もうすぐ正定寺下である。
ここからは、山の中腹に在る宿舎の伽藍は樹木の緑に包まれて見えないが、天に宙する「樅の木」の
大枝の下に鐘楼でもある山門が、頭上遥かから『お帰りなさい」と温かく迎えてくれる。
それは優しい母のお迎えにも似て、安らぎを覚えたものであります。
でも、山門に続く二百段余りの石段を一気に登ることは腹をすかしている学童らには
至難で休み休み踏みしめるようにして登ったもので、ここにたどり着くと、山門の柱に
こしかけひといきもたれ又は、石段に腰掛一息入れたのであります。
昭和四十二年頃、かつて学童らも成人し生活も落ち着いたので、『正定寺会』を作り、
疎開中慈父の如く慈み育ててくださった千巌和尚さんを沖縄に招待申し上げようと
計画しましたが、和尚さんは病床にふ伏しておられ、目的を達成することが出来なかった。
疎開当時大学在学中の義弘さんが帰省されると、子供らに取り囲まれて笑談しておられる姿を玄関の階段、
濡れ縁のところでよく見掛た。満たされない、すがりたい疎開生活であったが故に大変ほほえましく、
強く脳裏に残っております。
昭和四十五年十二月、義弘和尚さんを沖縄にお迎えして、
村長父母と共に歓迎申し上げ、
そして各地を案内する僅かの合間にも昔を今を語り合えたのは最高の歓びでありました。
昭和五十二年八月、学童らとその家族三十五名は千巌和尚さんの墓参で正定寺を訪れました。
一行が乗ったバスは裏門下に駐車されたのであるが、学童らは山門の石段道を急いで登ったのであります。
山門には数々の思い出が残っています。
(昭和四十六年大分合同新聞より・・・義弘和尚投稿)
那覇に着いた私は、空港で迫える大勢の人波に驚かされた。(中略)
教職を捨て、二年近く学童の世話に当たった森田先生の限りない愛の指導、身をもっての
教えが今四十才近くになり、既に親ととなった人々の中に立派に生きている。(中略)
歓迎会の席上、学童代表者は云いました。
「二年半のご恩は此の一週間で到底返せません。しかし、私達に出来る限りの事はします。」
言葉少ない挨拶はそのまま実行された。
私を案内しながら冷たい風はさりげなく人垣を作って防ぎ、夜はつもる話も打ち切てそれとなく私の疲れを
かばい玄関に置かれた靴は誰がするともなく磨かれ、レストランでは全員が私の食事が出来上がるまで
誰云いうとなく待ち、常に一番安全な運転手の車に乗せ、女の子はそって寄って服の塵をはらい、
風が吹けばセーターを脱いで掛ける。
漬け物好きの私に誰が届けたか鹿児島の漬物が送られ、大分県戦没慰霊塔には二度も車を走らせ花束
を持参する。
数え上げれば切りがありません。
そこには温かい心が通い、幾度か私を感激させました。
あわただしい年の瀬を、一家の主人、主婦が常に二十名近く交替で尽くすチームワークの良さ、
森田先生の人柄を知る私は、さりげなく親切を行えるこの人々を見て、教育の真の姿を見た思いがしました。
空港で手を振り、涙を浮かべて別れたかっての学童やその親たちに幸せが来ることを心より
祈っています。
照屋孚美夫さん
《沖縄学童疎開》
私は、五十有余年前正定寺に学童疎開としてお世話になった者の一人です。
当時小学校四年生の私も定年まで無事勤め終える事ができました。
これも、正定寺に疎開して沖縄戦の難から逃れ生を得たお陰だと感謝しているところです。
沖縄戦で肉親の誰かを亡くした疎開児童また、直前に疎開を止めた為に一家と共に亡くなった児童もいますが、
父母兄弟六人沖縄に残った者全員を亡くした私にとって疎開と正定寺には特別な感慨があります。
遠足気分で親元を離れ疎開生活の寂しさ苦しさに泣いたものですが、戦後帰郷した兄姉の語るところによると、
父は沖縄の激戦を予想し兄姉の年齢を考え血筋を残すために私を疎開させたと聞き只只涙するばかりでした。
疎開児童が集まり想い出を話題にすることは食べ物に関わることが殆どです。
出港から途中で船団を組む為の七日間に及ぶ待機を含む輸送船内の生活で空腹と喉の渇きに耐えられず、
蒸気の油臭い水滴を飲むなどの長い旅の後川原木駅に着き、夜分にも関わらず婦人会の皆様から頂いた
「しそお握り」のおいしかったこと、あの時の「しそ」の香りは今もって忘れません。
お寺での食事風景、当時の上級生は苦笑いをしますが、お椀に盛られたご飯またはお芋の量を目測し
量の多い席に着きそれから下級生が先を争って着席したものです。
また、学校の昼食時、軽くよそおったご飯が学校に着くまでに歩く振動で弁当箱の半分になるため、
これを弁当箱いっぱいに拡げて時間をかけて食べたこと等泣き笑いの想い出です。
なかでも心の痛む悲しい想い出は、学校の帰りに線路わきに落ちている蜜柑の皮を拾い、
休みの日には野山に入って桑の実を摘み軟らかい草の根・茎を食べていたが、寒くなるとそれも叶わず
周辺の農家の芋の種床を荒らしたことです。
空腹を満たすため農家の皆様に大変なご迷惑をかけ、また千巌和尚様にご苦労をかけた事を忘れてはならないと、
この時ばかりはしんみりとなります。
正定寺の疎開生活については、平成七年八月「学童疎開を考える平和学習」として御地の直川小学校において
小学生の皆様との交流会を持ちましたが、戦争の悲惨さと平和の尊さを感じとった感想文を読み、
また「広報なおかわ」・大分新聞にも紹介され正定寺の歴史の一ページとして若い世代に記憶され、
引き継がれることは、私たち学童疎開児童にとって望外の喜びであります。
「柳は緑花は紅人はただ情け」琉球古典音楽の一つです。
私たちはお世話になりご迷惑をかけた正定寺と直川村の皆様のご恩を生涯忘れることなく、
その絆を大切にしたいと思います。
沖縄は今元気です。
昨年の九州・沖縄サミットに始まり今年のNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の放映と沖縄の元気・バイタリティ
そして平和を発信しています。
早や六十路の高齢者となった疎開児童も『正定寺会』を結成し偶に集まっては往時を偲び、
堺正章演じる「恵文」父さん程ではないが『ナンクルナイサ』(なんとかなるさ)と年金生活を楽しく過ごしています。
最後になりましたが、正定寺と正定寺檀家の皆様の益々のご発展を祈念いたします。
橋迫香代子さん
《ブーゲンビリアの再会》
役員さんより、沖縄に行った時の事を書いてくれる様にと言われ、考えてみると女の人では
一番年長なので思い出して書いてみたいと思います。
直川に疎開していた人達との親善をかねた観光旅行に、さそわれて三十名の中に加えていただき、
昨年の十一月の末に行きました。
朝、皆が集まると、『沖縄は雨らしいなあ』と、天気を気にしていたのですが、天候は良く、楽しい旅が
出来ました。
空港に着いて一日目は、専念寺会と正定寺会に別れて行きました。
私達は、具志頭村のバスが迎えに来てくれ、和尚さんを先導に具志頭村に向いました。
当時、先生で来られていた森田先生(七十才)のガイドで、村のセンターに案内され、
村長さん、助役さん、教育長さん、皆さんの出迎えをうけて、村をあげての歓迎でした。
正面には「川原木校同窓会正定寺会」と大きな字で書いてあり、正定寺にかかわりを持っている人が、
沖縄にも多いのを、改めて知りました。
今、直川では余り聞かない「川原木」という言葉を度々聞き、懐しく思いました。
テーブルを囲んで、皆が顔を合せると、お互いに年はとっているが、四十年前の思い出のある顔ばかりでした。
村長さん方が、『戦時中お世話になりました。』とお礼の挨拶があり、
こちらから、村長さんの末長い親睦と交流をと言う意味のメッセージを送って戴き、
手作りの料理をご馳走になりながら、今の若い人には想像もつかない様な物資の少なかった
時代の事を語り合っていると涙が出ました。
森田先生のおっしゃるには、引きあげる時に、帰ったら引き取る人のない子供が出来るのではと
心配したが、そんな人は一人もなくて、良かったと話していました。
八十才を過ぎたお母さん達も何人が見えていました。
戦争で受けた何箇所もの傷あとを見せてくれて、子供達は川原木にお世話になっていたので、
戦は知らぬと話していました。
命がけで、子供を手放した時のつらかった事を涙ぐんで話していました。
寒さと飢えに苦労はしたが、其の苦労が有ったからこそ今では皆、良い地位にあり、
幸せな生活をしている事を知り、良かったなあと思いました。
川原木にいた時に、沖縄を思い出して歌っていたという数え歌を皆で涙を流しながら合唱しました。
二日目・三日目は観光コースで廻ったのですが、米軍の基地の広いのには驚きました。
何処でもブーゲンビリアが奇麗でした。砂糖畑が目につきました。
私は、ヒメユリ部隊の映画で水を求めながら死んでゆく場面を思い出し本土の水をお供えしようと
思って持って行き、合同慰霊碑にお供えしました。
喉を渇かした兵士達は、きっと古里の谷や川を思い出したでしょう。
指令所のあった壕の説明を聞き、追わるる身で壕の中で指導を取った人達の苦労を偲びました。
健児の像ヒメユリの塔では国の為に若い命を捧げた人達が可愛そうでした。
生きて居れば、私達と同じ位の年だがなあと思いました。
空港を立つ時間前になると、一昨夜お会いした人達が見送りに来てくれて、
「来てね」「行くからね」「元気でね」「皆さんに宜敷くね」と再会をちかって別れました。
現在の、平和で豊かな時代に感謝しながら、直川村に帰りました。
廣瀬博信さん
《八月盆・敗戦・疎開》
今年一月から正定寺世話人の役を頂きましたが、何分にも浅学非才な身であります。
何事に付け至らぬ点も多々あることと思いますが、
正定寺様をはじめ先輩役員また檀信徒の皆様方の御指導とど協力をいただき責任と実行を基本として
世話人の役を勤めさせて頂きます。どうぞよろしくお願い致します。
早速ですが、此の度は、正定寺寺報に何か記載してはしいとの要望があり簡単にお引き受けしたものの
今日になっては、何の様なことを記載するべきかと、とても迷っていたんですが、
実は昨夜(六月三十日)TOSテレビの深夜番組で《今よみがえる沖縄戦の真実》と云うテーマで、
当時の沖縄の現実が放映されました。
その画面はとても悲惨な太平洋戦争の誤戦により先祖から受け継がれた大切な家・水田・畑・家畜
そして尊い命までが短時間で破壊されて殺されていく映像でした。
此の真実は、ただ言葉で戦争の「犠牲」とだけで片付けてはならないと思います。
一瞬のうちに破壊はできますが再建はとても長い年月が必要とされます。
沖縄では今なお再建に努力を重ねられているそうです。
戦時中の昭和十九年八月沖縄の具志頭国民学校(現小学校)の生徒四十九人が家族と別れ
本土の山間部、旧川原木村は正定寺へ集団疎開されました。
正定寺本堂へ寄宿され二年余の生活はとても食料物資の乏しい時代でしたが苦楽を共にしたものです。
その甲斐あって今は、きずなも固く結ばれ昭和五十八年二月正定寺住職様のど協力が実り
私達当時の同窓生四十五名が沖縄へ渡り久々の涙の再会に成功することが出来ました。
沖縄の皆様(沖縄正定寺会)との交流は増々深くなるばかりとなりました。
終戦の日が近づくとことさらに当時を思い出します。
森田邦之さん
《僕の知らない祖父がいました》
とても大きな声が、私を呼びます。
ひとつひとつの言葉は、とても丁寧で熟考しながらゆっくり喋ります。
まるで、校長先生の朝の集会。
私の祖父である吉雄は、校長先生だったようです。
過去形なのは、私が1回も校長先生だった姿を見たことがないからです。
私にとってはごく普通のどこにでもいるありふれたおじいちゃんだと思っていました。
祖父はいろいろな経験をさせてくれたと思います。
新幹線の切符の買い方、釣りの仕方、散歩の仕方、ハエたたきの使い方・・・。
あるとき、僕は祖父に言いました。
「沖縄の日差しはとても暑いけど、フライパンを外においておいたら目玉焼きが出来ると思う。」
祖父は僕の馬鹿げた問いかけをまじめに聞いてちょっと微笑み、
「実際にやってみなさい」と言ってくれました。結果は内緒です。
祖父と弟と僕の3人で、仲良く釣りに行きました。
家の堆肥置き場でミミズを捕まえ、綺麗な澄んだ海のすぐそばにある小さな水溜りでした。
沖縄にもうなぎがいたのは驚きです。祖父もとてもびっくりしていました。
祖父は散歩が好きでした。とにかく地図を買って歩き回ります。
どこかに旅行に行くと、次の朝の早朝は必ず散歩に行っていました。
富士山に家族で行ったこともありました。家族5人と祖父の計6人だったと思います。
1人また1人と家族が脱落し、8合目を過ぎるころには、私と祖父の2人だけになっていました。
9.5合目でさすがの祖父もギブアップ。おまけに持ってきた1.5リットルのコーラのペットボトルの
ふたが自然に緩み、祖父のリュックの中をずぶずぶに濡らしていました。
「私はここで待っているから、頂上を見てきなさい」と言われ、頂上までは私一人で行きました。
おいてきた祖父が心配だったので走って行って20秒ほど火口を眺め、急いで降りてきたのを
覚えています。
沖縄疎開の話は、僕には一切しなかったのでよくわかりません。
親戚のおじさん、おばさんや、両親からの情報がすべてでした。
そんなとき、インターネット上で祖父の名前で検索をかけ、正定寺さんを知りました。
僕の知らない祖父がいました。
知らない写真がありました。
僕の知らない祖父がそこにいました。
私と祖父の思いでは、語りつくせぬほどたくさんありますが、正定寺さんのインターネット上の情報で、
私の中で一段上の説得力と納得を感じさせてもらえました。
このような機会を与えてくださった正定寺住職様に感謝いたします。
ありがとうございました。
昭和45年(1970)12月25日戦後初めての沖縄訪問
昭和52年8月4日 沖縄本土復帰で31年ぶりに正定寺へ
昭和57年晋山式に学童来院
昭和58年2月沖縄へ同窓生が訪問
平成元年11月同窓生が沖縄訪問
平成7年戦後50年の平和授業に沖縄学童が小学校へ
具志頭小学校校長 赤嶺幸信先生からのメッセージ
直川小学校のよいこの皆さんにごあいさつを申し上げます。
本日ここに「平和を願う日」に当たり、皆さんにメッセージを送ることができますことは
わたしの大きな喜びであります。
50年前具志頭小学校の児童が「学童疎開」として、皆さんの直川小学校の前の学校川原木小学校、
地域の皆さんに大変お世話になりました。
おかげさまで元気に終戦を迎えることができました。
感謝いたしています。
今日その代表を迎え、戦争中のお話しを聞き、平和の尊さを学習することは大変すぼらしいことと思います。
50年の歳月を経てもこのような交流があることが皆さんの学校のよさ、地域の人情の厚さ、
温かさを感じています。
この縁を大切にし、これから皆さんと具志頭小学校がお互いの学校や
地域の様子を知らせたり、文通を通しながら、豊かな心の交流ができることを願っています。
さて、せっかくの機会ですので平和を願う沖縄県の様子と本校の様子を簡単に紹介したいと思います。
さる太平洋戦争では沖縄県で20万余人が亡くなり、家、田畑、山が焼け、多くの戦争の被害を受けました。
そこで本県では恒久平和と戦争でなくなった霊を慰めるため、6月23日を「慰霊の日」として、
その前後に皆さんと同じように「戦争の悲惨さ」や「平和の尊さ」について学習を行っています。
具志頭小学校は創立115年目を迎える歴史の古い学校で、校庭に大きなガジュマルのある緑豊かな学校です。
現在児童数542人、18学級です。
子どもたちは明るく、素直で、校内美化作業も進んで働きます。
放課後の活動では吹奏楽が盛んで過去に3年連続九州マーチングコンクールで金賞を受賞しています。
学校ささえる地域社会は8字、2ヶ所の団地からなる純農村・漁村して、現在でも第一次産業が盛んな
地域で静かな生活環境です。
このような具志頭小学校です。
この機会を通して皆さんとの交流が末長く観くことを期待してます。
最後になりましたが、直川小学校のますますのご発展と児童、校長先生をはじめ職員のご健勝を祈念致します。
平成7年8月6日
直川小学校校長:鴨尾利夫先生のご挨拶
今年も、8月6日がやってきました。丁度50年前の今日、あの恐ろしい原子爆弾が広島に落とされた日です。
私たちは、今までこの日を「平和を願う日」として、戦争のおそろしさや、平和の大切さを勉強をしてきました。
戦争が終わって、今年で50年たち、今は、戦争もなく平和な楽しい生活が続いています。
それで、どちらかというと戦争のこわさやおそろしさを忘れがちになっています。
しかしそれは、戦争を体験した人や戦争の苦しみを味わった人達が、二度とあのようないまわしい戦争を
してはならないと、今まで一生懸命がんばってきたからだということを、私たちは忘れてはいけないと思います。
さて、今年は「学童疎開を考える平和学習」として、戦争の時、直川村に学童疎開として来られていました
方々をお招きして勉強することになりました。
学童疎開とは、なんだろうか、戦争と関係あるのだろうか。と思う人が多いと思います。
学童とは、みなさんのことです。
疎開とは、戦争がはげしくなると、子ども達は、勉強ができなくなります。
お家で遊ぶこともできなくなります。
そこで、子ども達を安全なところに移して学習させようとしたのです。
沖縄では、安全なところはありません。
それで、直川のようなあまり危なくない所に移して生活させることにしたのです。
それを疎開といいます。
ここにおいでの方々は、50年前「学童疎開」として、沖縄から色々な危険に合いながら、直川村まで疎開され、
前の川原木小学校に通っていた方々です。
「正定寺」を自分の家にして、お父さん、お母さんと離れて遠い直川の地で勉強することになったのです。
当時、小学校3年生の人もいました。
全く知らないところでの生活は、ほんとにきびしものでした。
食べること、寝ることも思うようにいきませんでした。
お父さん、お母さんと離れての生活は、さびしくつらい毎日だったと思います。
戦争は、命を奪うばかりでなく、親や兄弟との生活を奪うものでもあります。
そして、人間の心さえメチャメチャにしてしまうものでもあります。
お見えになった沖縄の方々は、こうしたことを身をもって体験された方々です。
今日は、遠い沖縄からわざわざ見えられ、みなさんに戦争当時のようすや体験されたことをお話して
いただきます。
お話をしっかりと聞いて、二度と戦争をしない、平和な国になるように一緒に勉強したいと思います。
終わりになりましたが、沖縄の方々には、遠い所わざわざお越しいただきまして誠にありがとうございます。
戦後50年、ややもするとあのいまわしい戦争の記憶が風化しようとしているとき、
本校と関係の深い「学童疎開とは何であったのか」を、戦争を知らない子ども達や体験されていない
世代が多い中で、今改めて問い直すことの大事さを痛感しているところです。
次代を背負う子ども達が、少しでも平和の尊さ、戦争の悲惨さを感じとってくれればという思いでいっぱいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
正定寺と沖縄疎開学童の人々
私が初めて沖縄を尋ねたのは、本土復帰を果たした「めんそーれ沖縄」のハタがひらめく昭和50年の
「沖縄国際海洋博覧会」です。
私は、友人と二人で具志頭の森田先生ご夫婦の家に5日ほど寝泊まりをしました。
学生の気ままな旅行でしたが疎開学童の皆さんや博覧会会場で民宿をなさっていた森田先生のご子息に
大変お世話になりました。
それに、崎浜時子さんの実家では、当時お元気だったご両親にもお会いできました。
私の祖父である千巌和尚は、私が物心付く頃には病に臥してました。
歩く姿は記憶にありません。
ただ、沖縄の子供達の話は良く話してくれていました。
当時、外地であった沖縄を遠い国のような感覚で聞いていました。
戦後50年の節目であった、平成7年(1995)には、当時の学童や関係者が「平和学習」のために
直川小学校まで来て頂きました。新聞にも取り上げられ、とても感謝しています。
学習に参加した小学生は「感想文」を書き、具志頭小学校へ「平和への願い」を込めてお送りしました。
私の息子や娘が九州中学校水泳大会で沖縄に行った時も、大勢の疎開学童のみなさんに応援していただき
子供達にも沖縄の皆さんとの交流の縁が出来ました。
以前、森田先生は私にこんな事を話してくれました。
『沖縄への帰還が決まった時、川原木村役場から正定寺へ渡すようにと役場担当者からお金を受け取りました。
そのお金は学童の世話をした正定寺への慰労金だったと思います。
でも、帰還後に家族を失った児童の為にそのお金を使いたいと思っていた私(森田先生)はお金を正定寺へ
渡しませんでした。
そのことを千巌和尚は知っていたにもかかわらず、一言も触れることなく私達を涙で送ってくれました』と・・
森田先生も千巌和尚も共に子供達を一番に考えていたことがうかがえます。
祖父千巌和尚は12人の兄弟姉妹がある家庭で育ちました。3才の時に正定寺へ小僧としてあずけられます。
家族と離れて暮らすその境遇は、疎開学童のみなさんと同じだったと思います。
千巌和尚の育った環境が、疎開学童の受け入れにも大きくかかわったと思っています。
昭和45年沖縄招待に出向いた父 義弘和尚が歓迎挨拶で詠んだ祖母の詩があります。
「限りなき いばらの道を踏み分けて 今ぞ恵みの春を迎えん」 小原ヤエ 79才
平成7年(1995)戦後50年の平和授業感想文 二年生の部
二年ごとうかおり
せんそうやころしあいにあったりしたら、わたしはほんとうにいやです。
もうこんなことがないように、みんなにいやなおもいをさせないように、
なかよしにしていたいです。
けんかにはじゅうぶんきをつけたいです。
もうせんそうはいやです。
二年 あんどうまりな
きょう、わたしは、せんそうのことをべんきょうしました。
すごくこわかったです。
きるものやたべるものがなかったりして、とてもたいへんだったんだな、
くるしかったんだなと思いました。
それに、せんそうは、子どものおかあさんやおとうさんを、うばったりするから、
わたしは、とってもこわいです。
わたしは、よそに一日とまっただけでもこわいのに、せんそうがあって、
おとうさんやおかあさんがいなかったら、どうしようって思ったらとってもこわいです。
それなのに、せんそうで、おとうさんやおかあさんがいなくなった子どもたちやあかちゃんは、
さびしくてなきだしたほどだったんだなと思いました。
せんそうは、これからぜったいにやらないほうがいいのに、フランスでかくじっけんをしています。
へいわなのがいちばんいいのに、じぶんの国だってあぶないのに、どうしてこんなことをするのでしょうか。
わたしのできることは、おともだちとなかよくすること、小さなせんそうをしないことです。
ぜんりょくでがんばりたいです。
二年 かわ村かつゆき
ぼくは、せんそうはおそろしいと思います。
でも、にんげんが、ぶきを作りつづければ、またせんそうがおきると思います。
ぼくは、こんなことになってはいけないと思います。
だから、一人ひとりがへいわをあいし、せんそうをしないといいつづけないといけないと思います。
二年 きらけいし
八月六日、学校で、へいわのべんきょうをしました。
なお川小学校に、おきなわの人がきました。
五十年まえ、なお川にかぞくとわかれて、せんせいにつれられてそかし、
川原木小学校でべんきょうしていた、とはなしてくれました。
たべものがなく、むら人の手つだいをして、たべものをわけてもらっていたとはなしてくれました。
ぼくは、せんそうは、たくさんの人が、かなしいことになるのでしてはいけないとおもいました。
二年 くぼたはるか
せんそうは、こわいなと思います。
おばちゃんたちは、なにもわるいことをしていないのに、せんそうをするなんてひどいなと思います。
おばちゃんたちは、おきなわから、なおかわにひなんしてきてながいあいだ、
おかあさんにあえないでかわいそうだなとおもいました。
これから、せんそうのないように、みんなで力をあわせて、へいわなくにをつくっていけばいいと思います。
二年 よしうちあやみ
わたしは、せんそうの話をきいて、せんそうはとてもこわいとおもいました。
もし、わたしが、そのじだいにうまれていたらそのとてもこわいせんそうを、
からだでかんじてうごけなくなるかもしれません。
こんなこわいせんそうは、二どとしないでほしいと思います。
二年 あんどうゆい
わたしは、いつもいつもせんそうはこわいと思っていました。
この話をきくと、せんそうは、まだつづくかもしれないのがよくわかりました。
その話の中で、しんだおかあさんのおっぱいをのむあかちゃんの話が一ばんかわいそうでした。
そして、がけからおちたのがなにかと思ってみると、それは人げんでした。
人げんがごみみたいになっていました。手が、かたほうない人もいました。
わたしは、しんだ人がかわいそうでたまりませんでした。
わたしは、こんなせんそうにはかないません。
いまは、ほんとうにめぐまれています。
まだ、せんそうをつづけているくにもあるとききました。
早く、ちきゅうからせんそうがなくなるといいとおもいます。
二年 大友ゆう
せんそうは、こどもたちまでまきこむなんてひどいとおもいました。
せんそうは、ひとのこころをくるしめ、すむまちをこわしてしまいます。
わたしのくにも、ばくだんがおとされたらたくさんのひとがかなしむとおもいます。
みんながかなしまないように、いまのままのへいわをまもっていかなければならないとおもいました。
二年 そみやゆみ
わたしは、せんそうのべんきょうをしました。
かなしいと思ったところがいっぱいありました。
せんそうは、したくないと思いました。
それは、せんそうは、人と人とがころしあいなんにんもの人がしんでしまうからです。
わたしは、せんそうとはかなしいことだと思いました。
二年 羽明つかさ
わたしは、火にかこまれてつぎつぎになくなっていく人たちを見ておどろきました。
せんそうしていてすごくつかれきっていました。
おふろもはいれずいのちをうしなっていく人もいました。へいわにくらせない人ばかりです。
せんそうというものは、すごくつらいと思います。
せんそうをしていない人もつらい思いをかんじると思います。
平成7年(1995)戦後50年の平和授業感想文 三年生の部
三年 武田かな
わたしは、沖縄の人たちのお話を聞いて、きるものもなくて、
ごはんもおなかいっぱい食べれなくてとてもかわいそうでした。
いまのわたしたちは、五十年まえとちがって、国はすごくへいわです。
沖縄では、せんそうのときかぞくは、ばらばらですごく悲しかったと思います。
せんそうは、すごくこわいと思いました。
三年 赤岩直
ぼくは、せんそうのとき、おきなわのひとが、
川らぎ小学校や直見小学校にきていたことがきょうはじめてわかりました。
きょうきたおばあちゃんのはなしでは、せんそうのとき直川では、食べていたものは、
みかんのかわやいものつるを食べていたということでした。
今のぼくたちは、あれはきらいというけれど、そのときは、たべものがなくて、
おちていた物を食べることもあったそうです。
ぼくは、これからは物をたいせつにしようと思います。
三年 稲吉たかのり
8月6日の平和授業におきなわの人たちが来て、せんそうのときのお話をしてくれました。
せんそうのときは、食べる物もないし、ミカンの皮をひろって食べたりしてとてもつらかったと思います。
また、お父さんとお母さんとはなればなれになって悲しかったと思います。
ぼくは、もうせんそうは、にどとおこってほしくないと思いました。
三年 山畑友美
わたしは、川らぎ小学校と直み小学校にせんそうのとき、学童疎開していた沖縄の人の話を聞いて、
親子はなればなれになって、せいかつしなければならなかったなんて、ほんとうにかわいそうでした。
もうせんそうは、してはいけないと思いました。
三年 輿石南
わたしは、せんそうはとてもこわいものだと思います。
なぜなら、ほかの国のへいたいが、入りこんで町の人たちをくるしめたりするからです。
学童疎開をしていた人たちの話を聞いていると「これは、本当にあったことなんだなぁ。」と思いました。
わたしは、もう二度とせんそうはしてはいけないと思いました。
三年 森竹美奈
私がいちばん心にのこったことは、お母さんとはなれて直川に来たときとてもさみしく、つらかったときいて、とてもかわいそうだと思いました。
私だったら、ないてとてもいけないです。
みんなは、なかなくて来たから強いなと思いました。
私は、これからもずっと平和であることをわすれません。いつまでも元気でいてください。
三年 西田亜希子
沖縄のみなさんこんにちは。皆さんがすんでいる沖縄は毎年あたたかくいい所。
直川村は暑い時さむい時があるので、しもやけができて大へんだったでしょう。
私が、いちばんおどろいたのは、みなさんが小学校のことしごとをしていたとういことです。
みなさんは、すごくきびしい中をすごしていたんだなぁと思いました。
三年 山ぎわ一ほ
親からはなれて、おきなわから直川にそかいしてきたのは、三年生のときだったそうですね。
わたしだったらさみしくていけません。
食べ物がないのが一番こまったそうですね。
今では、たべものがなんでもあるし、とてもしあわせでよかったと思います。
二度とせんそうがおこらない平和な国にしたいです。
三年 御手洗法子
8月6日今日は、沖縄の方が私たちの学校直川小学校にわざわざきてくれてありがとうございました。
私のおばあちゃんは、せんそうとうじ、4年生だったそうです。
きょうこられた方は、おばあちゃんと同じ学年だったそうです。
それで、せんそう中は大分にきてどう思いましたか。
それと今日は、せんそうの映画を見ました。映画をみていたらこわくなりました。
やっぱりせんそうはこわいです。
三年 中島智之
きょう、はじめてせんそうの話を聞いてたいへん悲しくなりました。
なぜなら、ぼくたちと同じくらいの子どもたちが父さんや母さんとはなれて、遠くでくらしていたからです。
そして、何もわるいことをしていない人がいっぱい死んだからです。
ぼくは、二度とこんなせんそうは、したくないです。
三年 守永知未
わたしは、沖縄の人たちのはなしを聞いて、
たべるものがなくてごはんもいっぱいたべれなかったことがよくわかりました。
いまのわたしたちは、五十年まえとちがって、くにはすごくへいわです。
せんそうgはあったときは、沖縄の人たちは、かぞくがばらばらですごくかなしかったそうです。
わたしたちは、ぜったいせんそうはあってほしくありません。
三年 橋迫奈央
家ぞくとはなれて、遠い直川まで来て、さびしかっただろうな。
食べるものが、おべんとうばこの半分でかわいそうだな。
今は、食べ物がいっぱいあるのに、
五十年前は、せんそうで食べるものが少ししかないなんて、本当にかわいそうだな。
せんそうでいきてきた人は、強い人だなぁと思いました。
平成7年(1995)戦後50年の平和授業感想文 四年生の部
四年 御手洗昌子
八月六日に、わたしたちの学校「直川小学校」にきてくれてありがとうございました。
みなさんおお話を聞いて、とてもせんそうはこわいものだなぁと思いました。
くろうしたんだなぁとも思いました。
せんそうがあっていた時代には、食料があまりなくて、
せんろにおちているみかんのかわをやいて食べていたという話を聞きました。
食料もすくなくてくるしかったけど、
まだくるしいのは、お父さんやお母さんそして兄弟ともわかれてくらすことじゃないかなと思いました。
みなさんは、せんそうがあっていた時、まだ、私たちと同じくらいで、
お父さんとお母さんとわかれてくらしていたと聞いてびっくりしました。
せんそうでもいやなのに、家族とわかれてくらすのはもっといやじゃないかなぁと思いました。
それで帰ってみると、家族の何人かが死んでいたら、
いままでずっとがまんしていたのが、みずのあわじゃないかなと思いました。
直川にそかししてきて、家族のみんなと会えなくて、それをずっとがまんしてきたのに、
帰ってきて死んでしまっていたら、とても悲しいなと、私は思いました。
みなさんが、直川村にそかいしていたときに私のばあちゃんは四年生でした。
兄弟が七人もいて、ばあちゃんは上から二番目です。ばあちゃんの兄弟はみんなたすかりました。
みなさんのお話を聞いて思ったんだけど、今は食料も買えばいくらでもあるし、
せんそうもないし、とてもしあわせなんだな。と思いました。
初めてせんそうのくるしみがわかりました。
ありがとうございました。
四年 戸高恵里
今日は、とう校日(平和じゅ業)でした。
九時に学習センターに行きました。
おきなわの方のあいさつなどがあって、ビデオ(せんそう当時のすごくこわい)を見ました。
見ている間、私はドキドキのれん続でした。
もしも、このときせんそうの中に私がいたとしたら、どうなっていたのだろう・・・・。
食べ物も着る物も今私たちがくらしているのとまったくちがいます。
私だったら、たぶんいやぜったいにそういうくらしを、たえしのんで生きれなかったと思う。
そして、それを伝えるために、
わざわざ遠いおきなわから、ここ直川まできてくれたみなさんにかんしゃしたいと思います。
私たちは、せんそう中に生まれていなかったから体験された人に
「そういう気持ちわかるよ。」なんていうことは言えないけど、
このようなことが、ずーっとなく、平和にみんな仲良くくらしていけることを、ねがうことはできるから、
できるだけのことはしていきたいと思います。
本当に今日は、今まで以上に「平和というものはすばらしい」ということを学ぶことができてよかったです。
四年 前田昌子
わたしは、ビデオで防空ごうの中の死体を見て、
「なんで、かんけいない子どもや女の人やお年よりをまきぞえにしなければならないのだろう」
そればかり思っていて、くらしくなって、手に持っていた髪をにぎりしめていました。
ビデオをいっしょに見ていたお母さんは、
「小さな男の子が一人でふるえていた。その場面が忘れられない」といっていました。
わたしも「もしもせんそうが起こったらどうしよう」と考えました。
次に、教室に帰って、おきなわから来た三人の話を聞いて、わすれられなかった事は、
「みかんのかわをひろって、火であぶって食べていた。」と言う事です。
こんなことは、今のわたしたちのくらしでは信じられない話なので驚きました。
それから、もう一つ林さんが、
「家の人と二年くらいはなれていたら、どんな気持ちになりますか。」としつ問をしていましたが、
わたしは。「早くお家の人に会いたい。」気持ちでいっぱいになると思います。
林さんたちの話を聞きながら、せんそうは、かんけいない人をまきぞいにして、
数えきれないたくさんの命をなくすので、ぜったいにしないほうがいいと思います。
せんそう当時とくらべて、今のわたしたちのくらしは、食べ物はあるし平和だと思います。
最後になったけど、PTA会長さんがいっていた「目に見えないプレゼント」とは、
「せんそうのこわさとせんそうはぜったいにあってはいけない」と言う事を、
おきなわから来てくれた十八名の人が、私たちに持ってきてくれたと思いました。
四年 上村奈央美
八月六日の出校日に、おきなわの人が来て、せんそうのことを話してくれてはじめてしった。
五十年前にこんなことがあったなんてしりませんでした。
おきなわから、直川のほうへ疎開して来た人たち、私とおなじ年で、
お母さんたちと別れて違うところに来ての勉強は、さみしくてとてもたえきれなかったと思います。
でも、お母さんがわりの人がいたから、すこしはすすんできたかもしれません。
私にはとてもできません。
駅におちていたみかんのかわを焼いて食べていたなんてしりませんでした。
そのみかんを食べるには、ゆうきがいったと思います。
船に乗った子どもたちを見て、お母さんたちは、さみしくなったと思います。
人が人をころしあうなんてぜったいないほうがいいです。
ずっと平和な村でいたいです。
四年 村上奈穂
八月六日の出校日の日に、昔せんそうのために、
おきなわから直川へそかいしてきた人がきてくれました。
学習センターでいろいろな話をききました。
わたしは、その時、一番すごかったのは、ビデオで見た何万人、何千人という人の死体があったことです。
「すごいや、すごいや」ではすまされぬむござです。
それから、教室ではとう時四年生だった人がきてくれていました。
その時、きいた話では、駅のせんろにおちていたみかんのかわをやいて食べたそうです。
だれが食べたかもわからないみかんのかわをやいて食べたのだから、
ぜんぜん食べ物がなかったんだと思います。
ごはんが食べれないとおなかもすくし、もてません。
そかいしてきた人は、お父さんやお母さんとはなれてとてもかなしかったと思います。
私は、これからもせんそうでひがいをうけた人たちの事を思って生きていきたいです。
四年 川村明日香
八月六日に、沖なわからせんそう当時、この直川小学校にそかいしてきた人がきました。
この人たちは、当時三年生、四年生、五年生、六年生の人でした。
せんそうのときのことをくわしく話してくださいました。
せんそうのせいで、そかいしてお父さんやお母さんとはなれてくらし、
食料がなく、いものつるやみかんの皮を食べていたそうです。
せんそうは、人の命を次々とうばっていきました。
食料がないなんて、わたしたちだったらたえきらないだろうと思いました。
お父さんやお母さんとっしょにいられなくて、連らくもとれない、
帰ってきたらもしだれもいなかったらたえきらないだろうと思いました。
せんそうの中、この直川にきて少しは、らくに生活するようになったと思いますが、
大変だったことがたくさんあったようです。
初めて、本当のせんそうのおそろしさがわかりました。
じっさいにたいけんした人たちおは、悲しみや苦しみを味わってきたんだと思います。
私は、たいけんしたことはないけど、とてもおそろしいものおもいました。
四年 安藤綾
八月六日の平和じゅ業では、おきなわから直川に疎開してきた人が来て話をしてくれました。
また、おきなわ戦のビデオ見ました。
ビデオでは、とうじのおきなわがどんなふうだったかとてもよくわかりました。
つぎに、話をきいて教室にかえりました。
教室では、とうじ四年生だった人がきて話してもらいました。
話では、かごしまの近くまでが来て、よ中でぎょらいを受けた船もあったそうです。
そんななかで、そかいしてきたそうです。
きしゃで直川についた時は、たくさんの人たちがむかえにきてくれておにぎりをもらってたべたそうです。
ほかにも、せんろにおちていた、だれがたべたかわからないみかんのかわをやいてたべたり、
しおを作ってうりにいったりしてたいへんくろうされたそうです。
私が一番心に残ったことは、二年間もおやとわかれてれんらくもとれないことです。
自分のおやが生きているか、しんでいるかわからないということは、ほんとうに心ぱいだったと思います。
おきなわにかえって、おやとあったとき、とてもうれしかったと思います。
おきなわの人が、はなしてくれたことはそうぞうもできませんが、とてもいい勉強になりました。
また、こんなきかいがあるといいです。
四年 久保田笑美
私は、8月6日の平和じゅ業でおきなわの人からテレビや写真ではわからない事をおしえてもらいました。
おきなわの人の話の内容は、昔の食べ物のお話やせんそうの中のくらしなどいろんな話を聞かせてもらいました。
私は、せんそうの話を聞いて、いままでわからなかった事がわかりました。
おきなわの人は、私たちに一つ一つていねいにこまかくお話をしてくれました。
私たちは、じっさいにせんそうをたいけんしていないけれど、
おきなわの人の話を聞いてだいたいわかりました。
とてもいい勉強になりました。
これからも、もっとせんそうのことを聞きたくなりました。
私は、こうしたお話のなかで、二度とせんそうなんかない世の中にしていきたいと思いました。
平成7年(1995)戦後50年の平和授業感想文 五年生の部
五年 吉内崇
ぼくは、ビデオやおきなわの人の話を聞いて、戦争のこわさをしりました。
遠いおきなわからそかいしている人がいたなんてしりませんでした。
おきなわを出るとき、「いったいどんな気持ちだったんだろう。」「もし自分だったらどんなことを考えたんだろう。」と思いました。
「そかい先へいきたままつけるか。」と考えながらの旅、
また、「いつおきなわへ帰れるか。」「おきなわの人達は、どんなになるのか」とおもうと、
たいへんつらかっただろうと思いました。
ばくは、両親とはなればなれになっておきなわから遠い直川へそかいしてこなければならなかった事を知り、
また、当時の話を聞き、戦争のおそろしさこわさを知り、二度と戦争をおこしてはいけないと思いました。
おきなわに帰れて大変よかったと思いました。
五年 曽宮弘行
具志堅小学校から直川小学校に疎開してこられた人たちから、戦争中の話を聞きました。
くるしい戦争を体験し、その中を生きのびてきた人たちの話でした。
話を聞いていると、今のぼくたちの生活と比較して考えられない生活でした。
具志堅での生活、船の中での生活、正定寺での生活すべてが地獄のようなものでした。
この苦しみは、戦争をけいけんしたものしかわからないものだと思いました。
戦争というものは、つみのない人まで殺し、人をふこうにおとしいれるざんこくなものです。
戦争は、これからもずっとやらないほうがいいと思います。
五年 久保田霞
八月六日に毎年平和授業をしているけど、今年は戦争にあったおきなわの人たちが、直川にきてくれました。
全体集会の時の話は、しっかり聞いたつもりだったけど、暑くていつのまにかぼけっとしていて、
けっきょくいっしょうけんめい話をしてくれた人の話を覚えないままになってしまいました。
教室では、当時そかいされていた三人の人が、話をしてくれました。
とくに心に残ったことは、よその家に争っていきたがったという話です。
「手をつないでいけば、ごはんがもらえるから」と
小さい子どもたちまでがいきたがったのが、かわいそうと思いました。
それから、当時五年だった人が、雪の日にジャガイモをぬすんだのも心に残りました。
人の物をつるのはいけないけど、それだけ空ふくだったんだなと思いました。
どこの国でも、戦争がなくなって平和になってほしいです。
五年 山下英美
私は、せんそうのことをきいて、むかしは、たいへんだったんだなと思いました。
ごはんは少しだけだし、遊べないというところがかわいそうと思いました。
いまの私たちは、いつでも遊べるし、ごはんもいっぱいたべられます。
それにくらべてたら、おきなわ人は、
お父さんやお母さんとはなれてくらしてさびしい思いをしていたことがよくわかりました。
私ならそんなことはいやですぐににげだしたりすると思います。
おきなわの人は、よくそれにたえられたなぁと思いました。
おきなわからわざわざ直川にきてくれた人たちにせんそうのことをきいて、
「せんそうはぜったいにおこしてはんらないんだなぁ」とすごく思いました。
私は、せんそうのないときにうまれていますが、
今日の話をきいて、これからはせんそうがおきないように努力しないといけないと思いました。
五年 森竹一雄
戦争の話をきいて「とてもこわいものだ。」としりました。
戦争で戦った人は、
ほとんど死んでしまって小さいこどもや年取った人もどんどんころされていったからです。
また、ふねんい子どもがたくさんのっていて、
そのふねがしずめられて、ほとんど死んでしまったということをきいて、かわいそうだなぁと思いました。
沖縄では、アメリカ軍のきちがあってそこに一歩でも入るところされるといっていました。
そんな所で生活している人は、すごいなぁと思いました。
ぼくたちは、今こういう生活ができてしあわせです。
五年 安藤千尋
わたしは、せんそうのことをおきなわの人から聞いて思ったことは、
せんそうというものは、小さなこどもまでをころしてしまうほどざんこくなものであるということです。
そかいしてきた人は、食べる物もなくて、
ふゆには着る物も不自由していたということでとてもかわいそうでした。
食べる物がないので、せんろにおちているみかんのかわを食べたり、
はたけにあるものをぬすんだりした生活だったということでした。
それだけいつもおなかがすいていたんだと思いました。
「きえないきずが心のきずとして残っている」とおきなわの人がいっていたように、
たぶんことばでは言えないくらいいやな思いをされたんだと思いました。
おきなわに行くと、せんそうでなくなった人の「とう」がたてられているそうです。
平成7年(1995)戦後50年の平和授業感想文 六年生の部
六年 芦刈匡輔
八月六日、直川小学校に沖縄の人達が来ました。
この人達は、五十年前集団疎開で直川村に来た人たちです。
初めに、学習センターで話を聞いたり、ビデオを見たりしました。
その後、教室で当時体験したいろいろな話を聞きました。
疎開する時、船の中では水が足りなかったら、蒸気を利用して落ちてくる水滴を飲んでいたということ。
また、台風にもあったらしく航海するだけでも危険であったということ。
その上、船が沈められることもあるので、どのように心配したかぼくには想像できません。
こんなにしてまで疎開しなければならなかったことは本当に大変だった思います。
こうしたことは、ぼくたちの時代にあったほしくありませんし、
二度と戦争が起こらないように願いたいです。
戦争をなくすためには、たくさんの人達や戦争の被害者の人達が、その体験を伝え続けることだと思います。
また、被害者の人達は体を大事にして長生きしてほしいです。
六年 松下奈津美
八月六日、戦争中に沖縄から直川にそかいしていた人達が来て、
当時のことをいろいろと教えてくれました。
その中で、特に思ったことは、「戦争中でもたのしいことがあった」といったことです。
私は、戦争といったら、つらくかなしいっことばかりあると思っていたから、
このことばには、ちょっとびっくりしました。
よく聞いて見ると、「そかいでは、戦争のことを忘れていた時がたのしかった。」ということでした。
でも、私は、
「親と子が、はなれて生活しなければならなかったので、とてもさびしかっただろうな」と思いました。
もし今、戦争がおきて親と子がはなればなれになって生活するのはとても悲しいと思います。
戦争は、みんながつらく、悲しい思いにさせるだけでいいことは何もありません。
だから、私たちは、戦争をぜったいにしてはいけないと思います。
沖縄の人が、話してくれたことを、もう二度とくりかえすことがないようにしたいです。
六年 矢野宏和
ぼくが、平和学習をして勉強になったことは、戦争のこわさとそかいの悲しさです。
戦争のこわさは、写真などで少しは知っていましたが、
沖縄の人の話やビデオで本当のこわさを知りました。
でも、ぼくは、戦争にあったわけではないので、これかも機会があったら、
もっともっとくわしく話を聞きたいです。
そかいは、親とはなれて生活します。ぼくたちは戦争のない時代に生まれこうした体験はありませんが、
考えられないほど悲しいと思います。話を聞きながらよくわかりました。
それだけに、こんな平和学習をしたこともよかったと思ってますし、
今のような戦争のない時代をいるまでも守りつづけたいです。
六年 前田哲明
八月六日の平和授業の時、沖縄から直川小学校に来てくれた。
この人達は、戦争当時、直川にそかいしてきてものすごく大変だったそうです。
そかいするとき、船の中では、ほとんど食べ物がなく、
水もまともに飲めなくて本当につらくて苦しい思いをしたそうです。
でも、このときよりも直川で暮らすほうがもっとつらかったそうです。
こんな話を聞きながら、人を殺す兵器を作って人を何人も何人も殺して、何がいいのだろうか。と思います。
住民たちまでまきこんで、一人ひとりの幸せをぶちこわしたり、
数え切れないほどの人達が苦しんだり、悲しんだりするような恐ろしい戦争は、
もう絶対に起きないでほしいです。
そして、そのためにも、ぼくたちにできる努力もしていきたいです。
六年 大友広太郎
8月6日、この日は原爆記念日でした。
学校では。戦時中沖縄から直川へ学童そかいできたかたがたをお迎えして、
そかい中の生活の様子などをうかがいました。
その内容は、今の私たちではとてもたえられないようなものばかりでした。
沖縄から九州へ来る船の中では、水はほとんどなく服も一枚しかなかったそうです。
ぼくが、「沖縄と直川では、どちらがよかったですか」と聞くと
「沖縄がよかったです。」とこたえてくれました。「どうしてですか」と聞くと、
「沖縄には食りょうがあったし、なにより親がいてくれたからです」といっていました。
ぼくは、この授業を通して、そかいは、単に親元をはなれるだけではないということを知りました。
食りょうはほとんどない、服も一枚しかないなどもう言葉では表せないほどつらかったと思います。
だからぼくたちの世代では、戦争のない平和のたえない世界にしていかなければならないと思いました。
六年 甲斐まゆ
私は、戦争のことなどあまり知りませんでした。
だけど、8月6日に沖縄から直川にそかいしてきたという当時三年生から六年生までの人たちの話をきいて、
自分が今まで知らなかった戦争の話をたくさん学びました。
そかいしていた人たちは、沖縄のお父さんやお母さんと別れてとてもさびしかったと思いました。
いろんな話を聞いたけど、そかいをしてきた人たちは、どんな思いで沖縄をでて、
どんな思いで沖縄に帰って行ったのだろうか。
また、戦争中は、食べ物もない。食べたくても食べれなかったことを考えると、
今の私たちはごはんをたくさん残したりしてとてもぜいたくだと思いました。
もう二度と戦争はしてはいけないと思います。
そのためには、「せんそうの話はこわくて聞きたくない。」と言わないで、
「どうすれば戦争はなくなるか。」今しんけんに考えていかないといけないと思いました。
六年 曽宮由香
八月六日の朝、私は、ドキドキしていました。
だって、沖縄の人がくると聞いていたからです。
私は、戦争をよく知りません。私が思っている戦争は、こわい、つらいというイメージです。
実際に沖縄の人が来てくれていろいろな話を聞いて、
私のもっていた心の中のイメージは、もっと強くなりました。
とくに、何人ものそかい者のお父さん・お母さん代わりになってお世話をする人が、
二人しかいなかったということを聞いてびっくりしました。
それだけ大変だったのだなぁと思いました。
私の家の母は、二人でも大変そうに見えます。
また、両親と離れて生活するということです。
私は、今小学校六年生です。自分のことが自分であまりできません。
ほとんど母や祖母からやってもらっています。
それが、当時小学校三年生で親と離れて生活していたと聞いて「すごいなぁ」と思いました。
それだけ、悲惨でした。
八月六日に私は。本当にあったこと、本当の戦争を教えていただきました。
もう戦争は、ぜったいにあってはならないと思いました。
六年 山下愛
私は、今日初めて戦争のことを聞きました。
最初は、「戦争」と聞いただけでは、こわい・かわいそうということがまず最初に浮かんできます。
でも、その中でもつらくて、きびしいことがあることを知りました。
当日、六年生のクラスに来てくれたのは、
森田吉雄さんと友寄久雄さん、中座房子さん、富山ヨシ子さんの四人です。
その中でも、森田さんは、戦後のことをいっしょうけんめいに話してくれました。
その話の中でなみだがありました。
今の子どもは、戦争をしりません。
だから話だけではわからないことがたくさんあります。
しかし、なん度か話を聞いてるうちに「もう二度と戦争をしてはいけない」と心から思いました。
食べる物もない、親もいないそんな悲しいことはあってはいけないと思いました。
私たちは、じっさいに戦争にあってはいませんだからこんなことがいえるのかもしれません。
けど、私にとっては、8月6日はとっても勉強になり、心をうたれました。
そして私までも悲しくなりました。
8月6日にきてくれた人たち全員に今感謝しています。
六年 大友美穂
私は、「平和を願う日」に、学んだことが三つあります。
一つは、戦争のきびしさのこと。
二つ目は、たったひとつのばくだんで、たった一つしかない命をとりさってしまうこと。
三つ目は、戦争のないしあわせな今のこと。
この三つのことは、八月六日に来てくださった沖縄の(当時そかいしてきた人)の話を聞いて学んだことです。
今、テレビでも問題になっているかく実験では、「地球を守ろう」という運動がさかんに行われています。
広島・長崎でのことを考えると、かく実験は私も反対です。
このようなことが、二度と起こらないように子どもができることは、
「みんな仲良く、たすけあって生きていく」ということではないでしょうか。
六年 西田麻衣子
八月六日には、平和授業で戦争当時川原木小学校にそかいしていた人が、直川小学校に来てくれました。
私の知っていた戦争のつらさは、食べるものもなく水もろくに飲めず逃げまわる生活でした。
でも、沖縄から来た人たちのつらさは、そればかりでなく、
「直川は、沖縄よりもずっと寒かった」ということ。
「沖縄のことがわすれられなかった」ということでした。
お父さん、お母さん、そして家族にも会えなかったかたよけいにつらかったと思います。
沖縄の人は、泣いてその当時の様子を私たちに話してくれました。
私には、こんなことはぜったいにたえきれないと思いました。
それにたえてきた沖縄の人は、本当にすごいなぁと思いました。
戦争のない時代に生まれた私は幸せです。
これからもずっと平和がつづくといいです。
六年 村上昌之
8月6日は、平和授業でした。
沖縄から、戦争中でそかいしていた人たちが、わざわざ直川まで来てくれました。
最初は、戦争のビデオを見ました。
その後、各教室に分かれて沖縄人たちから戦争当時の生活のようすを話していただきました。
はじめに、「沖縄の生活と直川の生活とでは、どちらがきつかったですか」という質問には、
「直川の方がきつかった。沖縄の冬は寒くなかったけど、直川の冬はすごく寒かった」ということや、
「ろくにご飯食べれなかった」というようすを話してくれました。
なかでも、ぼくが一番心に残ったことは、船で直川にくるとき、
「船の中で水に一番こまった」という話でした。
「海の上では、水がないから船のじょう気が、えんとつにつき流れ落ちてきたのを飲んでいた。
油くさかったけど、それをのまずにはいられなかった」ということでした。
あらためて、「なんで戦争をするのだろうか」と思いました。
六年 御手洗佳奈
8月6日は、平和授業がありました。
沖縄から直川の正定寺にそかいしてきた人たちがやってこられました。
まず、ビデオを見て学級ごとに授業をしました。
みんなで質問をしました。
「直川と沖縄は、どちらがよかったですか」という質問には、
「やっぱり直川は寒いし、何よりも父や母といっしょにいた方が幸せです。」と答えてくれました。
そんな気持ちがわかるような気がします。でも本当のところはわかりません。
実際私は、父・母・家族別々に暮らしたことがないからです。
しかし、もし私だったとしたらと考えると、いつも外のすみで泣いていると思います。
沖縄の皆さんは、とても強いと思いました。
私は今幸せです。
生きていること、走れること、しゃべれること、遊べること。
だから、もう二度と戦争は起きてはいけない。起きないように自分にもできる努力をしていきたいと思います。
六年 小原和可子
私は、八月六日の平和授業に出席できなくてとても残念でした。
でも、父のおかげで沖縄の人たちと知り合えて、車の中で色々な話を聞けたり、
ホテルで沖縄伝統の踊りも見ることが出来たりして人一倍学習できたと思います。
おばあさんの話のなかには、全部「戦争がなければ」「戦争のせいで失った」などの言葉がありました。
そういう話の中で、私が一番心に残ったことは、おばあさん二人が話してくれたことです。
「でも、今考えると、あの小さな沖縄だったから死人やけが人があれだけですんだんだよ。
あれが今の東京だったら、どれだけの人が死んだだろう。あれが沖縄でよかった」という言葉です。
「自分たちが被害を受けて、外国人にも、日本人にもうら切られたのに、
なんであれが沖縄でよかったなんて言えるの」と疑問に思いました。
私だったら、日本人も外国人もうらんで、こんな大分に来る気がしなかっただろう。と思いました。
沖縄の人って強いな。日本中や世界中の人間でも沖縄の人の気持ちの強さに勝てないだろうな。
そして、沖縄の人の心の広さ(ゆたかさ)にかてないだろうな。・・・・と思いました。