文化九年百姓一揆 尾浦の民
佐伯藩文化9年百姓一揆は今から205年前に勃発しました。
一揆の民と信仰
蒲江町畑の浦より船は、一面に浮かぶ真珠いかだの間を縫って浜木綿の繁る海神の岬を過ぎると、
太平洋の波がきわだつ岩に寄せて砕ける。
何か心細さを感じる頃、はるかに黒島を望む。急に左側の山が裂け静かな入り江がひらけ
船は滑るように進む。
三方屏風のような緑の山に囲まれた温かい窪地に小さく白い家が点在し、御伽囃の国を想わす。
この地が尾浦である。ここに正定寺ゆかりの檀家がある。
この檀家の先祖が歴史の中で苦難に耐え、真の自由と慈しみに生きた農民達である。
(正定寺第22世豊嶽和尚:文)
【概要】
この尾浦(真浦)から歩いて二昼夜かかる奥村に仁田原村・赤木村のほか山間の七ケ村がありました。
当時の村人はわずかに与えられた田畑や山林の耕作で生計を立てていました。
彼らは年貢の不正や諸負担の軽減など労役に見合った生活を求めてたびたび大庄屋や役人に
その是正を要求していました。
しかし、その願いは叶いいれられず、農民はやむ終えず佐伯藩への強訴に及びました。
参加した百姓は七ケ村の成年男子をはるかに超え全人口の6割近くが参加した大規模なものでした。
家族・子供を護るため十ケ条に成る佐伯藩への直訴は「文化九年佐伯藩百姓一揆」と言われています。
※一揆の資料は大庄屋や役人方が作成した古文書が元になっています。
ここに記した物は一揆を起こした民の「言い伝え」や正定寺に残る過去帳を元にしています。
【詳細】
文化九年(1812)(205年前)
1月11日夜半に一揆は因尾村・中野村から起こり各村の大庄屋・役人住宅を焼き討ちし、
山を越え横川村月形に向かいました。
時を同じくして上直見村の百姓も大庄屋・役人住宅の家具や帳面を焼き払って横川村月形で合流しました。
百姓は仁田原村の正定寺裏山にそびえる於流山(オリオ峠)を越え、
仁田原村・赤木村の大庄屋を打ち壊し、夕暮れ六つに槍・竹・太鼓・鉄砲(猟銃)・食料を持ち再び
於流坂に集結する事を伝達のうえ一端は解散しました。
この時、
百姓の頭立つ者は正定寺に集合して翌12日に城下へ強訴するための
行動・訴願について議論が交わされ「十ケ条」が作られました。
1月12日早朝、早朝、体制を整えた五千人の百姓は正定寺の大鐘が明け六つを告げると怒濤の如く
法螺貝を吹き立て・鐘を鳴らし・つむじ風のように口々に何かを叫び城下へと殺到しました。
下直見村と切畑村を隔てる大峠の簾山では代官・郡代が待ち受け百姓と対峙しました。
その時、知勇兼備の佐伯藩城代家老戸倉織部は
自ら佐伯藩本陣の切畑村の洞明寺を出立して農民の説得にあたり一揆は鎮圧しました。
【その後】
多くの獄門打ち首が予想された一揆でしたが、打ち首2名・流刑6名・処替え9名の処分でした。
その中に深島に遠島された仁田原村の友八・蒲江浦に所替えされた仁田原村の富蔵
入津浦船倉へ所替えされた赤木村の善吉の3名がいました。
【一揆の民と先住の民】
尾浦には正定寺の檀徒として既に寛保・宝暦年間の強訴などで深島や屋形島を経てこの地へ住み着いた
先住者がいました。
彼らは赤木村出身(山本家一族)・仁田原村出身(吉田家一族)の先祖です。
文化一揆の民は郷土を同じくする先住の民を頼ってこの地へ移住したと言われています。
又、先住の民が所替えになった民をこの地へ招いたとも云われています。
同じ菩提寺の檀徒として先住の山本家一族・吉田家一族が文化一揆の民にどのような援助と支えを行ったのか
知るすべはありませんが、「一揆の民」とそれを支えた「先住の民」は、山間の生活から海辺の生活へと
変わって行きました。
205年経った今でも彼らの末裔は、時の悪政を正し、多くの農民を救った指導者の子孫としての
誇りをもち先祖が祀られている旦那寺を変えることなく今に至っています。
※山本家先祖は百姓一揆以前の元禄7年(1694)(323年前)に赤木村(現:佐伯市直川赤木)で葬儀した
記録と寛政12年(1800)(217年前)に尾浦へ移住した後に葬儀を行った記録が正定寺の過去帳や山本家の
位牌から見ることができます。
又、寛政5年(1793)(224年前)には源吉之娘(吉田家先祖)の葬儀をした記録も正定寺の過去帳から
判ります。
【一揆の謎】
一揆には百姓を支えて奔走する宝積院と名乗る山伏が登場しますが、
その人物は当時の正定寺住職第十六世珍宗和尚ではないかとの言い伝えもあります。
その珍宗和尚はこの尾浦から海岸線へひと山超えた米入津色利の生まれです。
珍宗和尚への薄墨御綸旨が今も正定寺には残っています。
嘉永元年(1848)(169年前)に遷化しました。
(正定寺第23世壽山:文記す)
文化九年百姓一揆 尾浦の民
一揆以前に尾浦に移住した吉田家(檀徒)の過去帳
(左から2行目:桂嶽素香信女 寛政五丑年(1793)(224年前)八月 畑野浦 源吉娘)
文化九年百姓一揆 尾浦の民
宝暦元年(1751)(266年前)に於利宇峠(オリヲ峠)をめぐって柚の原の田主と土地境界線の争いに
ついて記されています。
この古記録にある於利宇峠(オリヲ峠)が60年後には5000名の百姓が集まる舞台となります。
尾浦
尾浦に建てられた由来板
由来板が立ち上がった日に集まった末裔の方々