粥の和尚と云われた佐伯藩の名僧乾堂和尚
乾堂和尚の扁額
けんどうおしょうのへんがく
りゅうていざん・ようけんじ
けんどう
ぜんじゅ
龍鼎山養賢寺の和尚さんで号を乾堂・字を全壽と言う
徳の高い禅僧がいました。
乾堂和尚は豊後府内の生まれ(現:大分市稙田小原 わさだ・おばる)で初めは正定寺第六世の
住職になります。
その後、元禄12年に養賢寺へ転錫、元禄15年養賢寺第九世になられました。
元文4年(1739)二〇五世展待する。(瑞泉寺)
養賢寺は佐伯藩主毛利公の菩提寺でその中でもご開山の三関和尚と九世の乾堂和尚は広く仏教の教典に
通じた高僧でした。
六代藩主 毛利高慶公(もうり たかよし)は深く乾堂和尚に帰依し、乾堂和尚が経典を講ずるときには、
必ずその席に臨んで聴聞したといわれています。
宝永4年(1707)4月(310年前) 乾堂和尚が円覚経を講じた時は、 遠近の僧侶はいうまでもなく家中を挙げて
その席に臨み、聴衆 があふれるほどであったといいます。
これにたいして、高慶公は白銀百両・米二〇俵を寄進して、こ れを支援しました。
乾堂和尚は33年間養賢寺の住職をなされ、享保19年(1734)養賢寺近くの臼坪に寶林庵をむすび
隠居しました。
この寶林庵の「寶林」は乾堂和尚が初住した正定寺の山号「寶林山」から付けられました。
寛保2年(1742)(275年前) 12月31日遷化なされ養賢寺の祖師塔に葬られています。
乾堂和尚の元には諸国あまたから大勢の雲水(修行僧)が集まっていました。
戒律を守ることも厳正であった乾堂和尚は、雲水達に常々
『一滴の水・一枚の菜・一粒の米麦も粗末にするな』と戒めていました。
しかし、雲水は大勢で若くもあり釜に付いた飯や鉢に付いた食べ残しは洗うときに溝へ流れて
捨てられていました。
それを知った乾堂和尚は人の寝静まるのを待って水流しの外にざるをかけ、ざるにたまった飯粒をとり、
水で洗って蓄え「おかゆ」に煮て食 べていました。
乾堂和尚の逸話(佐伯人物伝より)
ある時、悪い噂が誰からともなく起こりました。
『乾堂和尚は持戒堅固の聖僧のごとく思われているが、その実は戒行の低いニセ坊主で、
毎晩人々の寝静まるころを見計らって、ひそかに自分の部屋で山海の珍味を味わい、
酒食におぼれている』という噂です。
真実を知ろうと佐伯藩の家老が寺に忍びこんで様子をうかがうと、噂に違わず和尚は別鍋を作って
舌鼓を打っていました。
家老は早速登城して藩主毛利高慶公に告げました。
乾堂和尚に帰依しておられた高慶公は和尚の人柄と家老の言葉とにあまりにも違いがひどいので、
自ら真相を確かめることにしました。
ある夜のこと、人々が寝につくのを見計らって高慶公は屋敷を忍び出られ、養賢寺の方丈前の庭に
忍び込み様子をうかがっていました。
家老の言葉に違わず、乾堂和尚は何か煮物をして食べておるとみえ、ごちそうのにおいが香ってきたそうです。
高慶公は乾堂和尚に帰依しておられただけに、裏切られたという憤懣も激しく、いきなり縁先から
雨戸を押し開けて方丈に飛び込みました。
乾堂和尚は不意の客に囲炉裡にかけていた土鍋にふたをして隣室に隠し、ふすまを締め、居ずまいを正して、
『この真夜中に先触れもなく御光来、ご急用は何事でござりましょうか。
夜中のこととて室内も取り乱しており、ご無礼のほどお許しを願いとうござります』と
声も乱さずに藩公に申し出られた。
藩公は和尚が隠しごとをして酒肉に心を乱されていると思いこんでおられるから、和尚の言葉も
ろくに耳には入らない。
『隣の部屋に隠されたのは、あれは何物でござるか。隠されても容赦は相なりませぬ』と厳しく問いました。
乾堂和尚はこのままお見逃し願いたいと頭を畳に付けるようにして、わび入るが殿様はかえって
不審を増すばかりで聞き入れません。
和尚はもはや、白状するより方法はないと土鍋を隣の部屋から持って出て
『夜中更けての小鍋立ての儀、つつみ隠さず申し上げます。
当寺には諸国から多数の僧侶が集まって修行致しております。
それらの雲水に対し、水一滴も無駄に使ってはならぬ、野菜一葉も粗末にするな、米一粒も大切にせよと
禅僧の心得をいい聞かせおることでございまするが、人数は多く若い年頃のこととて思うようになりませぬ。
台所の流し元などには、ご飯粒や野菜の切れ端などがこぼされたり流されたりしておりまする。
これは仏罪が当たる、もったいなきことと思いまして、人知れず台所の流し場の外口にざるをかけ、
毎夜、皆の衆が睡眠した後で取り出しで洗い塩をまぶし、炉の残り火でグツグツと煮て雑炊を作り、
夕食の代わりに頂く次第でございます。
かようにお見苦しきものをお目にかけたばかりでなく、藩公のお心をわずらわし誠に相済まぬことに
存じまする」と夜中のごちそうの事情を詳しく申し述べられました。
藩主高慶公は和尚の話を聞かれて、自分の軽々しい行動をいたく後悔され、
『たとえ一時でも老僧のご心行をお疑い申し上げ、誠に申し訳ないことを致しました。
かくのごとき始末のことにまで心を配られて修行僧を導かれているとは思い至りませんせした。
ご無礼のことを致しました。
米一粒、野菜一葉をも大切にせねばならぬというご教訓、毛利家の家宝として護持致したいと思います。』
何とぞ無礼の程はお許し下されたい といって静かに両手を合わせて合掌礼拝されました。
それから乾堂和尚は「粥の和尚」と称されるようになり益々諸国から雲水が集まり
「豊後佐伯にすぎたる養賢寺」と云われるようになりました。
飽食の時代である現在、乾堂和尚のコトバを今一度かみしめたいと思います。
【後書き】
この「乾堂和尚」のページはあちこちのネットや書物から拾い集めて作りました。
文章には元記事の文面もあります。ご寛容ください。